「十二人の怒れる男」(米/1954年)

◇押しも押されぬ名作、しかも社会派・会話劇・法廷ものと好きな要素が多いこともあって、意気込んで鑑賞した。なるほど、傑作の誉れが高いのもうなずける堅牢な作品だ。手狭な一室で繰り広げられる会話のみで、観客に手に汗握らせ続ける手腕は、名人芸というより他ない。だが鑑賞中に覚えた息が詰まるような感覚の正体は、作り手が巧に醸し出した緊迫感だけではなかったように思う。

 

◇映画は裁判所の外観のアップから始まる。某ドラマで見覚えがあるので、ニューヨークの裁判所だろうか。画面は階段からコリント式の柱を遡上していき、"...Justice is the firmest pillar of good"と彫り込まれた壁で止まる。映画の理念を託した重厚な佇まいで観客の気持ちを引き締めた後、裁判所内部の様子へとスピーディーに移っていくのがうまい。肩を落として帰路につく人、喜色満面で電話ボックスに駆けていく人、家族と抱き合う人。裁判所には堅いイメージが先行するが、数多の人生が交錯する人間的な場所なのだ。司法が「最も堅固な柱」でなければならない所以を実感させる導入だ。

 

◇作中で争われるのは有色人種の少年にかけられた父親殺しの嫌疑である。有罪の証拠は十分に揃っているかに思われたが、12人いる陪審員のうちヘンリー・フォンダ演じる陪審員だけが無罪を訴える。彼が証拠の不備を次々に指摘していくうちに、当初は有罪側にいた陪審が一人また一人と無罪に転じていく。50年代らしくヘンリー・フォンダの描き方はヒロイックだが、彼とて無罪の確証を持っていたわけではない。彼には覆せなかった有罪の証拠を、彼の説得で有罪の思い込みを捨てた陪審たちが反証していく展開は、少年漫画的な高揚感がある。各人の主張に彼らの来し方が反映されていることや、思いがけない人物が議論の鍵を握っていくことも、映画の思想を提示していると同時に、エンタメ性を高めている。

 

◇正義とは何か、真実とは何か、人の命を預かるとはどういうことか。ともすれば袋小路にはまり込みそうなテーマを扱い、それにふさわしい品位を保ちながらも、この作品が描き出す議論はまるで陣取りゲームのようだ。だからこそ、ありふれた事件をハラハラしながら見守り、(彼らの決断の正否はわからずじまいにも関わらず)最後にはちょっとした爽快感すら味わうことができたのだろう。だが、議論が勢力争いの様相を帯びるほどに、陪審員間に働く力学が前面に出てきて、居心地が悪くなってしまう。陪審員たちの発言力は、発言の説得力と必ずしも比例していない。マウント合戦を生き延びなければ一人前のプレイヤーとして認められないから、陪審員たちは「怒れる男」として振る舞ってみせなければならない。この映画はタイトルが示す以上に、高純度なマッチョイズムに貫かれた男映画だと思う。

 

◇余談になるが人種的偏見に固執し孤立する陪審員を見て、裁判員制度への反対意見の一つに「素人の判断は先入観や偏見に左右される」ことが挙げられていたのを思い出した。確かに憂慮すべき問題点だが、性暴力を巡る判例を見る限り、先入観や偏見に毒されているのはプロの裁判官だって同じではないかと考えずにいられない。

 

十二人の怒れる男 / 米 / 1954

監督:シドニー・ルメット

キャスト:ヘンリー・フォンダリー・J・コッブ