「異邦人」(アルベール・カミュ作/窪田啓作訳/新潮文庫)

◇既に夏の気配は遠いのに「異邦人」である。暑さの盛りの頃は三島由紀夫の「真夏の死」を読んでいたため、「異邦人」ではタイミングを逃してしまった。全くの偶然だが、逆にはならなくて良かったと思う。三島の観察の鬱陶しさは汗ばむ季節の不快さと重なっていたし、寄せては引く波のようなムルソーの語りには一抹の冷涼が漂っている。

 

◇宗教的素養は貧弱、哲学の知識はほぼ皆無という二重苦を背負いながら挑んだ「異邦人」。やはり難解ではあったものの、予想よりはるかにとっつきやすかった。宗教的基盤によって立っていないからこそ、かえってムルソーの理屈を飲み下しやすかったのかもしれない。一読して理解できなかったのは、全てのものの意味を否定したムルソーが、自身の死をその証明と意味づけした矛盾だ。この疑問に関しては、この作品に冠される「不条理」という言葉を調べてある程度解決した。

カミュは不条理が受け入れることができるものであるとした。理由は、人生の意味が不条理を超えたところにあるからである。もし不条理に気づくことができれば、この世界が意味を持たないことに気づく。ということは個としての我々は真に自由であり、世界を客観的ではなく主観的に捉えることができるとした。個々が意味を探し求めて自分なりの解釈を得ていくことで幸せになれるのである。 - 不条理 - Wikipedia

 ムルソーもまた全てのものが内在的・本来的に意味を持っていることを否定していたのだろう。そのうえで、自らの手で世界に意味を与えていったのである。しかしだからこそ、彼が再構成する世界では、自身とアラブ人の死の重さに重大な不均衡が生じてしまう。彼が死に追いやられるのは人々の異端への憎悪ゆえかもしれないが、そもそも彼が審判に合った理由は彼が高度に主観的な人間だったからこそなのである。個々人が完全に自立して、自分の目だけを頼りに生きるのは、それはそれで恐ろしいことなのではないか。カミュがこの危険についてどう考えていたかを知るには、他の著作を読むしかないのだろう。

 

ムルソーの悲劇は本来裁かれる理由のないことで断罪されてしまうところにある。ママンの死に対する自身の態度が人々の憎悪を呼んでいることを察したムルソーが「泣きたいという馬鹿げた気持ち」を抱くシーンは痛ましい。社会が所与の前提とするところを共有できない人間は、人間として認められないのだ。私はここでセクシャル・マイノリティを連想した。今も世界中で、日本で、首を斬られ続けている人々だ。そんな「異邦人」は無数にいる。これは明らかに「世界の意味」を信じる人間たちの罪だ。他者を殺す人間しか出てこないこの作品を読んで、誰も殺さない生き方とはどういうものだろうかと考えずにはいられなかった。