「ブロードチャーチ」シーズン1(英/2013年)

◇ミステリードラマは1話完結ものが多い。人気シリーズには「宿敵」ともいうべき犯人がつきもので、しばしばシーズンを超えて刑事たちの手を焼かせているが、彼らとて長期にわたり掛かり切りにさせるわけではない。本作は決して派手とはいえない単発の殺人事件を約6時間にわたって丹念に追った貴重な作品だ。普段はなかなか思いを馳せることのない、事件に否応なく巻き込まれた人々にとっての時間の重さを感じさせてくれる。

 

◇住民全員が顔見知りという小さな海辺の街・ブロードチャーチで11歳の少年が殺される。捜査に乗り出したのは街に赴任したばかりの警部補と、被害者一家と親しい地元育ちの部下だ。二人とも忍耐強く誠意をもって捜査に尽力する「良い刑事」だが、決して切れ者ではない。だから事件は行きつ戻りつを繰り返し、その過程で多くの人々のひた隠しにしてきた一面を白日の下に引きずり出すことになってしまう。秘密が暴かれるたびに、住民の間には疑心と対立が生まれる。捜査を開始した頃は隣人を疑うことに葛藤を覚えていた部下も、予想だにしない現実に直面して打ちのめされる。そんな部下に警部補がかけた言葉が、本作のテーマなのだろう―――「自分以外の胸の内なんて決して知り得ない」。多くの人にとって頭では理解していても、努めて見つめないようにしている真理ではないだろうか。だからこそこうして眼前に突きつけられると、よりどころをすべて断ち切られるようで、平静ではいられなくなる。本作では最悪の形で「知り得ない内心」が反復されるのだからなおさらだ。だが本作はただ視聴者を断崖に置き去りにするのではなく、孤独の中に取り込まれないための一つの解を提示している。そして最後にはささやかな「奇跡」まで用意してくれる。神の沈黙をテーマにした「処女の泉」とも重なるが、奇跡を起こすのが人間である本作の方が、私にとっては心強く、慰めを得られた。

 

◇ところで本作が本国で放送された際は、謎解きで大いに盛り上がり、放送したITVの歴代最高視聴率をたたき出したらしい。いかにもミステリー好きのイギリスらしくて面白い。地味でスローながら堅実に練り上げられた作品がしっかりヒットすることに羨ましさも感じた。

 

ブロードチャーチ / 英 / 2013

キャスト:デヴィッド・テナントオリヴィア・コールマン

「十二人の怒れる男」(米/1954年)

◇押しも押されぬ名作、しかも社会派・会話劇・法廷ものと好きな要素が多いこともあって、意気込んで鑑賞した。なるほど、傑作の誉れが高いのもうなずける堅牢な作品だ。手狭な一室で繰り広げられる会話のみで、観客に手に汗握らせ続ける手腕は、名人芸というより他ない。だが鑑賞中に覚えた息が詰まるような感覚の正体は、作り手が巧に醸し出した緊迫感だけではなかったように思う。

 

◇映画は裁判所の外観のアップから始まる。某ドラマで見覚えがあるので、ニューヨークの裁判所だろうか。画面は階段からコリント式の柱を遡上していき、"...Justice is the firmest pillar of good"と彫り込まれた壁で止まる。映画の理念を託した重厚な佇まいで観客の気持ちを引き締めた後、裁判所内部の様子へとスピーディーに移っていくのがうまい。肩を落として帰路につく人、喜色満面で電話ボックスに駆けていく人、家族と抱き合う人。裁判所には堅いイメージが先行するが、数多の人生が交錯する人間的な場所なのだ。司法が「最も堅固な柱」でなければならない所以を実感させる導入だ。

 

◇作中で争われるのは有色人種の少年にかけられた父親殺しの嫌疑である。有罪の証拠は十分に揃っているかに思われたが、12人いる陪審員のうちヘンリー・フォンダ演じる陪審員だけが無罪を訴える。彼が証拠の不備を次々に指摘していくうちに、当初は有罪側にいた陪審が一人また一人と無罪に転じていく。50年代らしくヘンリー・フォンダの描き方はヒロイックだが、彼とて無罪の確証を持っていたわけではない。彼には覆せなかった有罪の証拠を、彼の説得で有罪の思い込みを捨てた陪審たちが反証していく展開は、少年漫画的な高揚感がある。各人の主張に彼らの来し方が反映されていることや、思いがけない人物が議論の鍵を握っていくことも、映画の思想を提示していると同時に、エンタメ性を高めている。

 

◇正義とは何か、真実とは何か、人の命を預かるとはどういうことか。ともすれば袋小路にはまり込みそうなテーマを扱い、それにふさわしい品位を保ちながらも、この作品が描き出す議論はまるで陣取りゲームのようだ。だからこそ、ありふれた事件をハラハラしながら見守り、(彼らの決断の正否はわからずじまいにも関わらず)最後にはちょっとした爽快感すら味わうことができたのだろう。だが、議論が勢力争いの様相を帯びるほどに、陪審員間に働く力学が前面に出てきて、居心地が悪くなってしまう。陪審員たちの発言力は、発言の説得力と必ずしも比例していない。マウント合戦を生き延びなければ一人前のプレイヤーとして認められないから、陪審員たちは「怒れる男」として振る舞ってみせなければならない。この映画はタイトルが示す以上に、高純度なマッチョイズムに貫かれた男映画だと思う。

 

◇余談になるが人種的偏見に固執し孤立する陪審員を見て、裁判員制度への反対意見の一つに「素人の判断は先入観や偏見に左右される」ことが挙げられていたのを思い出した。確かに憂慮すべき問題点だが、性暴力を巡る判例を見る限り、先入観や偏見に毒されているのはプロの裁判官だって同じではないかと考えずにいられない。

 

十二人の怒れる男 / 米 / 1954

監督:シドニー・ルメット

キャスト:ヘンリー・フォンダリー・J・コッブ

「フィリップ、きみを愛してる!」(米・仏/2009年)

◇様々な感情が湧き上がってくる映画だったが、最後に残るのは空っぽになった感覚だ。疾走するような物語の展開と、抜けるような青空と、風を全身に浴びるような音楽が混然一体となって、あらゆる感情をどこかへ押しやってしまう。奇妙な軽やかさは心地よく、ほんの少し寂しい。

 

◇天才詐欺師の主人公は、刑務所で出会った恋人を幸せにしようと、詐欺で大金を稼ぐようになる。詐欺が露見して逮捕されれば、恋人に会うために繰り返し脱獄。いかにも映画的な暴れぶりだが、実話ベースだというのだから驚く。主人公を精力的な「求愛行動」に突き動かすのは、恋人への愛であり、幼少期から続く強烈な愛情飢餓だ。過去においても現在においても、主人公は愛されているように見えるのだが、それでも飢餓感は解消されない。周囲に向けて「偽りの自分」を作り上げている彼には、「本当の自分」が受け入れられている実感が得られなかったのだろう。あらゆる代償にも関わらず、彼が正直になれないのは、彼自身が自分を愛せないからだ。悪びれる様子もなく悪事を重ねる姿を見届けた後でもなお、序盤の「良い人間になりたい」というモノローグは切実に響く。主人公が一番裏切ってしまったのは、彼自身なのだろう。

 

◇苦さややるせなさも覚えるが、冒頭でも述べた通り不思議と重い気持ちにはならない。主演二人もいい。主人公ジム・キャリーのうさん臭い笑顔だけでも笑えるし、恋人役のユアン・マクレガーも子犬系でかわいらしい。そして何より選曲のセンスが抜群だ。下ネタが少なくないので、一人で、あるいは気心の知れた人とリラックスして観るのにいいと思う。

 

フィリップ、きみを愛してる! / 米・仏 / 2009

監督:グレン・フィカーラジョン・レクア

キャスト:ジム・キャリーユアン・マクレガー

「将軍たちの夜」(米/1967年)

◇主演ピーター・オトゥールオマー・シャリフ、音楽モーリス・ジャール、制作サム・スピーゲルの戦場映画―――「アラビアのロレンス」再び、とでも言いたげな布陣である。だからこそ期待しすぎないように気を付けてはいたのだが、予想外の方向でもどかしい思いを味わう羽目になった。この映画、ともかく惜しいのだ。「アラビアのロレンス」の域には到底及ばないにしても、その年を代表する10本に入るくらいのポテンシャルはあったように思われてならない。だが要所要所で詰めが甘いために、せっかくの素材も活かし切れず、佳作手前で留まってしまっている。

 

◇本作はナチス将官3人をめぐる1つの連続殺人事件と1つの陰謀を描いている。こう書くといかにもミステリーらしいが、観客は早々に真相を察してしまうので、謎解きの快感はない。しかしそれは作り手の意図した通りだ。問題なのは、映画が目指していたであろうサスペンスの魅力が欠けている点である。ただ漫然と画面を眺めているだけでも、死地を生きているはずである登場人物たちの杜撰な行動が、幾度となく目につくはずだ。これでは緊迫感も何もあったものではないうえに、物語のリアリティまで大幅に損なってしまっている。かようにサスペンスが欠落しているうえに、人間劇としても手薄だ。よりによって主演の二人を「アラビアのロレンス」に重ねる形で陰と陽に配置してしまったせいで、余計にキャラクター描写の貧弱さが際立ってしまている。せめて配役を逆にしていれば、面白みが出たかもしれないのに!

 

◇しかし寓話として見始めた途端に、この作品は現代でも褪せない輝きを放ち始める。街の破壊に師団を動員する力を持ちながらも、己の劣情を抑える自制心すら備えない男の矛盾。そんな男が国に身を捧げる軍神として祭り上げられる皮肉。加害側にいた過去を忘れて、被害者を相手にぬけぬけと懐旧談に興じる恥知らず。戦争が生み出す夥しい死者にも、時代の変動にも目をくれず、数名の女性のための「真実」だけを追う愚直な正義が行きつく先。この映画で描かれているものは、我々の過去であり、現在であり、未来でもある。人間が愚かであり続ける限りは。この作品が優れた問題意識を作品へ落とし込むことに成功しているからこそ、物語としての脆弱さが返す返すも残念でならない。普遍的なテーマを備えたサスペンスや人間劇の傑作が数多くある以上、この映画はやはり「あと一歩」という感想なのだ。ちなみに本作が作られたタイミングには、ある出来事があったのではないかと思ったのだが、一応結末部分に触れるので脚注の形で触れておこうと思う*1

 

◇ここからは鑑賞済みの人向け。この映画で一番古臭く感じてしまうのはゴッホの自画像と見つめ合ってガクガクし始めるタンツ将軍ではないだろうか。異常心理はこの作品の時点ですら流行遅れだったような気がするのだが、ともあれ安易にブームに乗っかるものではない。ところでこのシーンに何やら違和感を覚えたのだが、ゴッホの自画像の配色が違っていたようだ。恐らく炎(つまりは戦火)を連想させる絵にしたかったのだろうが、なかなか無茶をするものである。あの部屋の出入口にドガの「アブサン」が立てかけられていたのにはちょっと笑ってしまった。

 

将軍たちの夜 / 米 / 1967

監督:アナトール・リトヴァフ

キャスト:ピーター・オトゥールオマー・シャリフトム・コートネイ

*1:本作の制作年である1966年は、ニュルンベルク裁判で最も長い有期刑を科せられた戦犯が出所した年だ。きちんと調べてはいないが、当時は話題になったのではないだろうか。この作品は恐らく当時の人々にとってタイムリーだったはずだ。ラストの歓迎会の模様も、(主催は全く逆陣営とはいえ)この時に釈放されたアルベルト・シュペーアに対する歓待を連想してしまう。本作に登場する将軍たちの戦後は、複数のナチ戦犯を振り分けたかのようである。