ブエノスアイレス(香港/1997)

ブエノスアイレスが舞台の香港映画でTurtlesの"Happy Together"を聞くことになるとは!使われているのは粘着質な原曲ではなく、幾分アッパーなカバーバージョンだ。許諾の関係でやむを得ずカバーになったのかもしれないが、原曲が流れていたら映画から受ける印象は随分変わっていただろう。それについてはまた後ほど触れてみたい。

 

◇本作は20年ほど前のゲイ映画だが、同性同士の恋愛が障壁になっている様子は特に目につかない。セクシャルマイノリティ受容の先進国アルゼンチンにおいて、主人公たちは外聞をはばかる様子なく密着し、派手な痴話げんかを繰り広げている。この時代としては恐らく異例なほど、彼らの存在はごくカジュアルに扱われている。もっとも、この大らかさを欲するがゆえに、主人公たちはかなりの無理をしてまで地球の裏側へやって来なければならなかったのかもしれない。実際にマイノリティゆえの生き辛さと受け取りうる描写は端々に仕込まれている。そういった点を加味してもなお、「どこかに居場所がきっとある」「居場所を見つけにいくらでも出かけられる」という楽観が横溢しているように感じた。それは冷戦終結911テロの狭間という時代が生んだ「小さくなっていく世界」の明るさでもあったのかもしれない。2017年の作家は「会おうと思えばどこでだって会える」という台詞にこの作品と同じ説得力を持たせることができるだろうか。

 

◇そんなわけでノスタルジックな青春映画としてこの作品を楽しんだのだが、肝心の(?)恋愛の部分は難易度が高すぎた。以下はネタバレになるのだが、とりわけ解釈に困ったのが結末部分である。私は鑑賞後レビューをいくつか読むまで、イグアスの滝を訪れた主人公がウィンからチャンへ心を移したという読解に自信が持てなかった。というのも、ラストで流れる"Happy Together"は「君は僕の人生でただ一人の運命の人だから、一緒に幸せになろう」という歌なのだ。主人公が映画の大半を費やした恋を捨てた直後に流れる曲として、すんなりと納得できるチョイスではない。しかしどうやら主人公の心変わりは間違いなさそうなので、選曲の方に理由を見出さなければならないようだ。三人の関係性をこの曲に合わせてトリミングするとしたら、置いていかれたウィン→主人公という構図以外はありえないだろう。だがウィン視点をエンディングでわざわざ取り上げるとは思えないし、曲調も(陰にこもったオリジナルverならともかく)置いていかれた男の嘆き節にはほど遠い。三人の関係性を重ねたわけではないとすると、主人公の生き方や映画の世界観を表しているのだろうか。主人公がウィンにもチャンにも運命を感じていたのだとすれば、「運命を感じた人と幸せになればいい。そういう人は現れるから」という歌のような気もしてくる。場所も人間関係も変えながら、試行錯誤する主人公を励ますようなこの映画は、迷える人に向けた人生賛歌なのかもしれない。

 

ブエノスアイレス/香港/1997

監督:ウォン・カーウァイ

キャスト:トニー・レオンレスリー・チャンチャン・チェン

英国万歳!(英/1994)

◇本作はコメディと紹介されているようだが、お腹を抱えて爆笑するような愉快さは期待しない方がいい。この作品にあるのは権威をこけにする意地悪な笑いと、悲喜こもごもの人間模様から醸し出されるおかしみだ。イギリスコメディの愛好者には堪らない堂々たる風刺劇だが、苦手な方・不慣れな方は人間劇と割り切って観た方が作品に入っていきやすいかもしれない。一度も笑えなくても楽しめる作品だ。

 

◇原題はThe Madness of King George。前回紹介した「ザ・プリズナー」同様、舞台劇の映画化だ。ジョージ三世*1の乱心という史実を題材にしているが、要はお家騒動の話なので、事前知識がなくても状況把握はそれほど難しくない。私は視聴後に少しだけジョージ三世を検索してみたのだが、王に掴みかかられた皇太子が泣いてしまうシーンが史実通りだという記述*2を見つけて驚いた。さすがに誇張された腑抜けぶりだと思ったのに!皮肉と共感が半ばして描かれるジョージ三世とは対照的に、後のジョージ四世にあたる皇太子の扱いはただただ冷ややかだ。風体までモンティ・パイソンの「村のアホ」と重なるようで、全く容赦がない。父との人望の差が如実に表れているのだろう。

 

◇少しネタバレが入ってしまうが、面白かったのは侍従グレンヴィルの存在感だ。まるで端役のように登場して、段々と重要な立ち位置を占めていることがわかってくる。鑑賞済みの方のご意見を伺ってみたいところだが、彼はこの映画の裏主人公として配置されているのではないだろうか。現に、映画は彼の侍従就任に始まり、馘首で終わっており、時系列的には「グレンヴィル侍従記」と評しても差し支えがない。またグレンヴィルが冒頭の就任早々口にする「王だって人間だ」というセリフは、この作品で繰り返し変奏される主題だ。王を人間とみなす彼は、王と目を合わせて咎められたり*3、王に侍りながら思わず笑ってしまったりと、自然体に振る舞う。彼は王室という人工物の対にいるのだ。だからこそグレンヴィルは王であることを手放した病のジョージ三世に近づき、その近さを王に戻ったジョージ三世から疎まれることになる。グレンヴィルを放逐した王が、実態とはかけ離れた理想の家族を演じ、公衆の前に立つラストシーンは、ゴヤの「カルロス四世一家の肖像」のように滑稽さが滲んでいる。人間が人ならざる者に回帰していく摩訶不思議と苦さを味わったグレンヴィルの視線を通して見ているかのようで、やはりグレンヴィルの映画でもあるのではないかと考えてしまう。

 

◇余談だが、小ピットの印象が「アメイジング・グレイス」(英/2006)とは全く違うので驚いた。英国の奴隷解放運動を描いた「アメイジング・グレイス」では主役ウィルバーフォースの盟友として登場し、若者らしい溌剌とした一面も見せていた。なお本作でピットと敵対関係にあるフォックス卿も、ピット没後のウィルバーフォースの協力者として登場している。ぜひ見比べてみてください。

 

◇一応医学生が運営しているブログなので、最後に王の病気について少し調べてみた。映画の最後で王の病気はポルフィリン症だと考えられているという説明がある。ポルフィリン症は、ヘムという物質を作る機能に障害が起こる遺伝性の病気だ。ヘムの合成が最後まで進まないので、ヘムに変わる途中のポルフィリンという物質が溜まってしまう。ジョージ三世のタイプのポルフィリン症では、お腹の異常(腹痛や下痢など)、精神症状、疲労、神経症状、頻脈などが見られ、尿の色に異常が出ることもある*4。映画で描かれた王の症状と合致しているようだ。ただし現在ではポルフィリン症ではなく精神疾患だったのではないかという説も出ている*5ようなので、映画(および劇)では史料ではなく、現在わかっているポルフィリン症の病態に基づいて描写したのかもしれない。

 

英国万歳!/英/1994

監督:ニコラス・ハイトナー

キャスト:ナイジェル・ホーソーンヘレン・ミレンイアン・ホルム、ルパート・グレイヴス

*1:ハノーヴァー朝三代目にして初のイギリス育ちの王(ハノーヴァー朝はドイツ系)。かの有名なヴィクトリア女王の祖父にあたる。作中にも出てきた通り、あだ名は「農夫王」。当時植民地だったアメリカに強硬な姿勢で臨み、独立を招く一因となった。

*2:

マッド・オブ・キング ジョージ3世 ( 歴史 ) - 威風堂々 - Yahoo!ブログ

*3:王と目を合わせるのは不敬に当たるようだ。正気を取り戻した王が、乱心中に無礼を働いた(これも史実通りらしい)妻付きの貴婦人に謝罪しようとするシーンがあるが、ここの貴婦人が頑なに王の視線を避けているのが印象に残る。グレンヴィルの恋心を手もなくあしらう彼女の「宮廷人ぶり」が感じられるシーンだ。

*4:

Acute Porphyrias - Endocrine and Metabolic Disorders - Merck Manuals Professional Edition

*5:

What was the truth about the madness of George III? - BBC News

ザ・プリズナー(英/1955)

◇どうやら本作、日本では劇場未公開らしい。確認した範囲では、現在もAmazonがVOD配信しているのみだ。恐らくほとんど人目に触れていないのだろうが、あまりにも勿体ない。日本語の作品情報もほぼ見つからなかったので、布教を兼ねて、今回は簡単な紹介から初めてみようと思う。

 

◇最初に一つだけ強調しておきたい。Amazonの解説には「拷問」「残酷な行為」といったワードが出てくるが、本作における物理的な暴力の描写は2時間ドラマのレベルである。暴力描写の過激さで問題作になったわけではないので、そこで足踏みされた方は安心して視聴してください。Amazonの解説が間違っているわけではないのだが、誤解を招きそうなので念のため補足しておく。

 

◇本作はブリジェット・ボーランド*1の舞台劇を下敷きにしている。登場人物は複数人いるが、アレック・ギネス演じる枢機卿とジャック・ホーキンス演じる調査官による「ほぼ二人劇」と言ってしまっても差し支えはないだろう*2アレック・ギネスは舞台でも同じ役を演じており、思い入れが深いようだ。物語は架空の共産国家で枢機卿が逮捕されるところから始まる。かけられた嫌疑は国家反逆罪。声望高い枢機卿の影響力を恐れた当局による濡れ衣だった。尋問の第一人者である担当調査官はすべてを承知の上で、枢機卿に嘘の自供を迫る。しかしレジスタンスの闘士として鳴らした枢機卿もさるもので、あの手この手で繰り出される攻撃にも屈しない。取り調べが長期に及ぶにつれ、二人は互いの人生に深く踏み込んでいくことになる…。Amazonの解説でも少し触れられているが、ヴェネツィア映画祭では反カトリック的、カンヌ映画祭では反共的だとみなされ、上映禁止の憂き目にあった。おまけにアイルランドでは「容共的だから」上映禁止になったという傑作なオチまでついている。*3

 

◇作品を巡る物語が時局にどっぷりと浸かっていたのとは裏腹に、時代や政治はこの作品においてあくまで背景でしかない。話の軸は枢機卿の過去の遡及と人間性の深化であり、それに浸食されていく調査官の変化である。雑に括ってしまうが、人間のあり方という普遍的なテーマに焦点を当てているからこそ、この作品の語りは今なお古びないのだろう。伏線を回収しながら枢機卿の人生が徐々に浮かび上がっていく展開や、最後の最後まで意外性を見せるプロットの妙は、ミステリーとしても出色かもしれない。

 

◇この映画はアレック・ギネスを検索していて見つけた。ファンを名乗るほどではないが、底知れない人物に説得力を与えてくれる彼の演技が好きなのだ。この作品で彼が演じる枢機卿も、私の目には底知れない人物と映った。この映画では浄化が重要な意味を持っており、形を変え反復して描かれる。たとえば序盤のうちに枢機卿が手を洗う場面が二度出てくる。一度目はミサの最中、二度目は拘置所についた直後だ。当初は聖職者としても俗世においても潔白であることの表現かと考えるのだが、後に彼の口から幼少期の思い出が語られることで、観客はこれが彼の人生に深く根差した個人的な行為であることを察する。また疎遠な母親との再会を契機に精神的に持ち崩しつつあった枢機卿が、独房に設えられた階段を一心不乱に磨くシーンも出てくる。彼がその行為に向かった必然性は、後の階段にまつわる打ち明け話から明らかになる。枢機卿を突き動かす強迫観念じみた浄化への衝動を見ているうちに、この映画の苦難もまた、彼が聖職を選び取った時から始まった浄化の一幕でしかなかったのではないかと思い至る。自身に一点の曇りも許さず、全てを擲ってまでその魂の完成へ向かう彼のありようは、自堕落な私からすると高潔なる異形だ。それでもアレック・ギネスは苦悶や恐怖の表現で共感の余地を作り、あくまでも人間の物語であることを思い出させてくれる。

 

◇話は横道にずれるが、この作品を検索していたら「プリズナーNo.6」が何度も引っかかった。確かに原題も同じ、制作国も同じだ。アクションとSFの要素を持つ「プリズナーNo.6」と会話劇の本作ではテイストが全く違うが、一体自分は何を見せられたのだろうと観客に考えこませる作風は共通しているので、どちらかが気に入った人はぜひもう一つのThe Prisonerにも手を伸ばしてみてほしい。

 

ザ・プリズナー/英/1955

監督:ピーター・グレンヴィル 出演:アレック・ギネス、ジャック・ホーキンス

ザ・プリズナー(Amazonビデオ)

*1:オードリー・ヘップバーンヘンリー・フォンダが出演した映画「戦争と平和」(1956)の脚本家でもある。

*2:二人劇以外の部分は蛇足に感じることが多く、特にあるカップルのサイドストーリーは作品の弱点になっているとさえ思う。

*3:英語版Wikipediaより

バッファロー'66(米/1998)

◇冒頭でこんなに引き込まれた映画はここ最近でちょっと思い出せない。いきなり登場する子供と愛犬の写真に意表を突かれているうちに、全面灰色の背景に白字を抜いただけの簡素なクレジットロールが始まる。紙芝居のようなクレジットが終わると、大写しの刑務所に切り替わる。画面全体がクレジットを模倣するような寒々しい灰色で、これが映画全体を貫く色調なのだろうと視聴者に予感させる。物語に釣り込まれる見事な導入だ。

 

◇刑務所から身一つで現れる一人の男。男は行き場に困った様子で、しばらく刑務所から立ち去ろうとしない。看守に追い立てられて街中へと出てみても、帰る先は息子の所在も知らない両親の元だけ。男は母親に帰宅を知らせる電話で、いもしない妻を連れ帰ると約束してしまう。男は通りがかりの女を攫い、両親の前で妻のふりをしろと脅迫する。女は男に言われるまま、妻として家族の団欒に同席するうちに、いつしか男に心惹かれていく……ようなのだが、女がどうして男に共感を寄せるようになっていったのか、私にはいまいち読み取れなかった。演じるクリスティーナ・リッチのせいではない。描写が著しく男側に寄ったこの脚本で、女の言動に納得するのは土台無理だ。「被害者はなぜ逃げなかったのか」と公然と問われる世の中にあってこの作品の描写には危うさを感じるし、特に作品の後半は女の男への感情が物語を大きく変えていくことを考えると、女の感情に説得力がないことは物語上の致命的な欠陥と言えるのではないだろうか。

 

◇しかし致命的な欠陥を補うユニークな魅力も随所に感じられた。たとえば作り物めいた女とは対照的に、男の造形はやけにリアルだ。息子よりフットボールが大切な母親、男そっくりの理不尽で暴力的な癇癪を爆発させる父親、良い思い出と呼べそうなものは一つとない回想シーン。男の恵まれない来し方を想像させる全てに血が通っていて、男のキャラクターを肉付けしている。この作品の最大の魅力は演出にあると思うのだが、回想シーンがまるでひと昔前のホームビデオのように挟み込まれるのも面白い。この作品には目新しい演出が多かったが、単に珍奇に走っているのではなく、シーンの意義を補強する役割を果たしているので、見ていて違和感を覚えない。物語の根幹を受け止めかねながらも、最後までついていくことができたのは、この演出のおかげだろう。

 

◇ここからはネタバレ。男は自分の過去についてもっぱら誇大妄想じみた嘘ばかりを語るので、真実は主にホームビデオ仕立ての回想シーンによって描かれることになる。だが終盤になってようやく、男は女に苦い過去を打ち明けることができる。この後登場するホームビデオ仕立てシーンはたった一度、刑務所送りの原因(と思い込んでいる)を道連れに死のうかと逡巡する男が、自分の墓の前でもフットボールに興じ文句を垂らすばかりに両親の姿を想像する場面だけだ。男の告白で回想シーンは役目を終えたのだろう。男は同じフレームで未来を覗いて、自分に愛を注いでくれなかった両親と決別する。自分の悲劇を憐れんでいた男が、不毛なロマンティシズムから抜け出し、新しい一日を選び取ったのだ。ここに至って、ようやく演出の必然性を確信できた次第。男と女が抱き合うラストカットはいかにもいびつで、二人の未来や幸福が約束されたものではないことを感じずにいられなかったが、何はともあれ踏み出された一歩に希望を抱きたくなる結末だった。ケチもつけましたが、練り込まれたいい映画です。

 

バッファロー'66 / 米 / 1998

監督:ヴィンセント・ギャロ 出演:ヴィンセント・ギャロクリスティーナ・リッチ